自分さえも裏切って

マタイによる福音書26章17~25節  牧師 鈴木光

最後の晩餐の席で、イエス様は裏切ろうとするユダに愛を持って接します。

1.裏切り者と「一緒に」
 まず驚くべきことは、イエス様は(神様なので)ユダが裏切ろうとしていることを知っていますが、そのユダも一緒に十二弟子の一人としてイエス様は最後の食事の席についたということです。さらに、裏切ろうとするものに分かるように「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言います。
 イエス様は最後の最後まで、私たちが離れていかない限り、私たちと一緒にいてくださる方なのです。人は心の中で卑屈になったり、傲慢になったりして、勝手にイエス様から離れていこうとする性質を持っています(原罪です)。しかし、イエス様はいつも一緒にいようとしてくださるのです。自分の心の弱さ(卑屈にせよ、傲慢にせよ)が悪魔のささやきで疑いを起こさせます。イエス様に信頼しましょう。

2.神様の計画と人の意志
 「裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とイエス様は言います。決してユダの存在を否定するためではなく、彼が裏切りを実行に移す前に驚くほど強い言葉でそれを止めようと警告をしています。
 イエス様は自分自身のことは「聖書に書いてあるとおり」十字架にかかって世を去ると分かっています。しかし、そのためにユダが運命づけられているのではありません。彼には(そして私たち人間はみんな)悔い改めることも裏切ることもできる自由な意志が与えられています。だからこそ、滅びに向かう者に強い言葉で懸命に呼びかけるのです。立ち返って生きよ、と。声が届いているうちに悔い改めてイエス様を信じる人は幸いです。

3.自分さえも裏切って
 残念ながら、ユダは自分の罪を認めることはありませんでした。むしろ、「(裏切ろうとしているのは)まさかわたしのことでは」と白々しくも言いました。彼は自分が何をしようとしているか(何をしているか)分かっていたはずです。しかし、自分さえも偽り裏切っていました。イエス様は「それはあなたの言ったことだ(You say it.)」と言いました。あなたは分かっているはずだ、と。私たちは自分の非を認められない弱さが確かにあります。それを受け入れて勇気をもって、イエス様の十字架の前に進み出ましょう。そして、限りない赦しを受け取りましょう。

<思い巡らし>
イエス様は見捨てません。素直悔い改めて愛と赦しを受けましょう。