小さい者にしたこと

マタイによる福音書25章31~46節  牧師 綿引久美子

十字架直前でなさったイエス様の天の国のたとえは、いよいよ最後です。

1.最後に話されたたとえ(31節)
 十字架にお掛かりになる直前に話された終末の時を語った、イエス様の天の国のたとえは、この箇所が最後です。『裁きの時』についてのことが、たとえ話を用いて、語られています。大患難の後に起こるイエス様の再臨の時、神様の御栄光の座に着かれたイエス様は、この地上のすべての人々を御前に立たせます。
『最後の審判の時』はすべての人が経験する現実です。このぎりぎりの時まで、神様は私達を一人でも多く救おうと、手を地に向かって差し伸べています。

2.最後の審判(32~33節)
 イエス様が栄光の座にお着きになった後、私たちは神様の御前に一人ずつ立たされます。そして、羊飼いが羊と山羊を分けるように、私達も分けられるのです。羊は右に、山羊は左に分けられます。救われた人は羊(右に)、拒んだ人は(左に)
分けられます。ずっと共に過ごしてきた人たちが、初めてここで分けられるのです。
 神様を信じて生きる私たちは、羊です。最後の審判は、神様による救いが完成し、肉体を離れ、永遠の命で生きる新しい国に移される時です。この国では、苦しみも悲しみもありません。皆、白い衣を着た、汚れのない、神様のお創りになった本来の姿へと戻る時です。

3.小さな者にしたこと(40と45節)
私たちは、イエス様を通して必ず救われます。救われる者は救われる者にふさわしい歩みがあります。小さな者にしたことは、その生き方を教えています。神様は、地上で歩んでいる一人一人を見ておられます。そして最後の審判の時、一人一人の人生を振り返ります。
私たちは、時を知りません。神様と出会った時さえ気づかないのです。羊も山羊も、いつ、そのような行動をしたのか?わからないのです。神様の見ている私たちの姿は、日々何気なく過ごす日常です。そして、神様が小さき者となって出会ってくださっていたことも、この審判の時、初めて気づかされます。
今生きている私達も、いずれ神様の御前に立ちます。そして神様と共に、自分の生き様を振り返ります。もし天国で暮らす自分を意識して、日々歩んでいたなら、
ここでたとえられた羊のように、生きることができるのではないでしょうか?