復活の朝
マルコによる福音書16章1‐8節 牧師 鈴木光
イースター(復活祭)です! イエス様の復活の恵みを受け取りましょう。
1.既に動いていた「石」
復活の出来事は四つの福音書それぞれの視点で書かれていますが、今日はマルコの視点に特徴的なところに特に目を留めてみましょう。
まず、マルコは墓の入り口をふさいでいた「石」について詳しく記録しています。復活の朝に墓を訪れた婦人の弟子たちは、墓をふさぐ石が非常に大きいので、自分たちでは動かせないと心配をしていました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか(3節)」と。墓をふさぐ石はいわば、死と滅びの中に永遠に封じ込められる象徴のようです。しかし、婦人たちが墓につくと「石は既にわきへ転がしてあった(4節)」のです。
人は誰もがいつか死を迎えます。そこには希望がないように見えます。しかし、私たちは既にその石が取り除かれたことを知っています。イエス様は復活して、信じる者すべてに永遠の命を約束されました。
2.ナザレのイエスは復活の主
マルコはまた、天使が「ナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない(6節)」と語ったことを記録しています。「ナザレの」イエスという表現がマルコ独自ですが、この出身地をつけた表現には、人間として生きて、そして死なれたイエス様ということが凝縮されています。
婦人たちも復活するなんて信じていませんでした。人間のイエス様の遺体を処置してあげようと墓に来ただけです。しかし、この方こそ、これまでも何度もそう語られてきたとおり、人となられた主なる神様でした。
3.ここにはいないけど、共にいる
人間のイエス様をどんなに探しても「ここにはいない」と言われます。しかし、復活のイエス様を探すならば、私たちは今も「お目にかかれる(7節)」のです。主は今も生きておられる。イエス様を信じて歩み始める今日から、復活のイエス様は共に生きてくださいます!
<思い巡らし>
石は既に動かされました/復活のイエス様と共に歩みましょう。