十字架のイエス
コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18~25節
受難週です。今一度イエス様の十字架と向き合い、「私にとっての十字架」に想いを寄せましょう。
1.パウロにとっての十字架の言葉(18節)
「十字架の言葉」、それは「イエス様の福音」を意味します。イエス様の十字架の出来事、それは「イエスを救い主だと信じ、私の主と告白する」人にとっては、「神の力」だとパウロは言います。彼は、復活のイエス様と出会い、回心し、神の力を受けて、福音を語るものとなりました。いかなる困難の中でも、語り続け、自分が囚人になっても、それを強みとしてさらに大胆に福音を語り続けました。パウロにとって、十字架のイエスは、神の力そのものであり、福音は彼を生かす神の力なのです。それと同時に、福音を語るパウロは、神の力によって恐れはなく、喜びと勝利と祝福の人生を歩むことなのです。
2.世の知恵と神の知恵(20~21節)
「世の知恵」それは人が学んで手に入れる知恵のことです。人間の欲の中には、知識欲があります。人類の罪のきっかけとなったアダムの食べた実は、善悪の知識の木の実です。私たちは、すべてを知りたがります。しかし、私たちをお創りになった神様のことは、神様から与えられる神の知恵によらなければ、理解することはできません。イエス様の十字架に、神様の愛がどれほどあふれているか?そして私たちが生きるために必要不可欠なことであるのか?神様が働き「神の力」によらなければ、何一つわからないのです。そのことを教える十字架の言葉である福音は、「神の力」によって私たちに語られなければ伝わりません。すべて「神の力」がなすことであって、私たちはそこで命を得て、生かされているのです。
3.私と十字架(24~25節)
「あなたにとってイエス様の十字架とは何ですか?」私たちは、受難節になると十字架を近くに感じます。そして、自分の罪を知らされ、十字架の悲しみを味わう方も少なくないでしょう。自分の罪と向き合うことは大切です。しかし、十字架は私たち救われた者には、新しい命の始まりです。「今こそ神にあって生きよ」、この命です。十字架のイエスは、私たちの救いのためです。それは罪に嘆く悲しい命ではないのです。神様にあって尊いとされた命、神の力がいつもあなたを生かしてくれる祝福の命。一人ぼっちではない、いつも主が共にいる命なのです。
~主にあって、ハレルヤ!~