手を触れると
マタイによる福音書8章14~17節
イエス様の癒しシリーズです。今回はペトロの姑の癒しと病気に苦しむ人や悪霊に取りつかれた人に対する癒しです。
1.ペトロの姑に対する癒し(14~15節)
イエス様がペトロの家を訪れると、姑は高熱で寝込んでいました。ほっておくと命にかかわる高熱です。イエス様が姑の手に触れると熱は去って(癒し)いきました。この時代、男性が女性の手に触れることはありえない時代、イエス様は気にも留めず、姑の手に触れて癒されました。イエス様の姑を憐れむ思いと癒しの力は、神の子としてのイエス様のお姿の現れです。姑は、この後、イエス様の与えてくださった力によって立ち上がり、イエス様に仕えるもの(原文ではもてなすは仕えると同意)となりました。
2.病人や悪霊に取りつかれた者への癒し(16節)
日が暮れると、今度は病人や悪霊に取りつかれた者たちが、イエス様のもとへ、大勢連れてこられます。彼らは、イエス様の癒しの出来事を聞き、その癒しの業(奇蹟)を信じ願って訪れた人々です。求められた癒しは、身体的な癒しだけでなく、精神的(霊的)癒しにまで及びました。イエス様は、もちろんすべての人を癒しました。イエス様の奇蹟から始まる信仰にもイエス様は、応えてくださいます。イエス様は、人の苦しみを放っておかず、憐れみをもって救ってくださるお方です。
3.贖いの中にある癒し(17節)
身体的精神的救い(見える癒し)は、イエス様の贖いの中にあります。ここで上げられる旧約聖書の御言葉は、イザヤ書53章4節の引用です。イザヤ書53章は、「苦難の僕の歌」と言われ、イエス様の苦難の生涯(十字架の苦しみ)を預言していると言われています。
『彼が担ったのは私たちの病
彼が負ったのは私たちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。』 ~イザヤ書53章4節~
この御言葉の成就だと言っています。すべての癒しが、イエス様の十字架の贖いに含まれていることがわかります。神様が人を癒されるのは、私たちを憐れみ、苦しみから解放したいという神様の愛するゆえの想いから来ています。しかし、神様の想いはそこで終わりません。神様は、人の見えないところにある神様からの赦し(罪の苦しみからの完全な解放=完全な癒し)まで受け取ってほしいと思っています。私たちは、神様の与えてくださるすべての癒しを受け取っていこうではありませんか。
奇蹟は、あなたのただ中にあります。気づいてください。