平和があるように

ヨハネによる福音書20章19~31節 

 マグダラのマリアがイエス様の復活を伝えたその日、弟子たちの前にも復活なさったお姿で、イエス様はあらわれます。イエス様は「平和であるように」と、弟子たちに声をかけられます。

1.神様との平和(31節)

 イエス様は十字架で死なれた三日後、弟子たちの前に姿をあらわしました。目の前にある現実におびえ、先の見えない未来に不安を抱え、閉ざした部屋の中で身を隠していた弟子たちでした。その真ん中にイエス様はあらわれて「平和があるように」と声をかけます。これはユダヤのあいさつの言葉です。しかしイエス様は、その言葉に命の息を吹きかけて(神様の息)、「罪の赦し」と「神の力(聖霊)」を宣言してくださいました。また、「彼らを派遣する」という未来の道筋を見せて、生きる希望を与えてくださったのです。神様との平和があるとき、私たちは、すべてに打ち勝つ神の平安を心に得ることができます。その時、尽きることのない喜びを手にするのです。

2.人の平和(19~21節)

 弟子たちは、世を恐れていました。イエス様が死んでしまい、自分たちの主のいない悲しみ、そして自分たちもイエス様のように捕らえられるかもしれない恐怖で心は張り裂けそうでした。「平和があるように」。イエス様の与えてくださる平和は、私たちを一番苦しめる人との関係にも深く関わってくださいます。神様が愛してくださるように人を想う時、人を赦すことができます。また、その人の気持ちを考えることができます。そして、人には解決できない問題に、復活されたイエス様の勝利の力は輝き、恐れや不安を見えなくします。

3.私の平和(26~28節)

 イエス様の復活の姿を目にした弟子たちは、喜びに満たされました。しかし、トマスだけはイエス様の姿を見ることができずに心を閉ざします。「イエス様の十字架の傷あとを見なければ信じない」。否定的に断固として復活を受け入れないトマスの訴えに、イエス様は応えてくださいます。トマスにも「平和があるように」と声をかけます。私たちは自分にこだわります。こだわればこだわるほど、心は頑なになります。神様の平和はこの頑なな心を溶かします。トマスは、「わたしの主、わたしの神」とイエス様に告白します。

 心に神様を迎えるとき、私たちの心は、平安を得ます。

今、その時ではないでしょうか。