和解の十字架

コロサイの信徒への手紙1章18~23節

受難週です。イエス様の苦しみを覚え、与えられた救いを受け取りましょう。

1.十字架の血で

イエス様は、その十字架の「血」によって平和を打ち立てられました(20節)。血とは命だと聖書は語ります。旧約聖書時代、人々は神様の教えに従って、自分の罪の身代わりのささげもの(動物)をしていました。ささげられた動物の流す血は、強いリアリティを持って罪の裁きの厳しさを教えていました。

今、私たちは動物をささげることはしていません。なぜなら、罪のないイエス様が私たちのすべての罪を負って身代わりとして血を(命を)流されたからです。だから私たちはもう、滅びることがありません。イエス様を信じる者は死んでも(天国に)生きるのです。

2.平和の十字架

 イエス様の十字架は平和を打ち立てました。「平和」という言葉にも色々な意味があります。国々や人々の関係で争いがないことも平和と呼びますし、心の中が穏やかに落ち着いていることも「平和」と言います。では外も中も平和な状態はどのように生まれるでしょう。それは十字架の血によって打ち立てられるものなのです。

 聖書で用いられている「平和(シャローム)」の土台は、神様との和解にあります。人はそれぞれ自分の正義を持ち、他人の正義とぶつかったり、排除しようとしたりして争います。しかし、すべてを造られた主から離れて本当に「正しい」ということなどありません。神様に立ち返る時、私たちは初めて本当の平和を受け取ることができます。それは、環境や状況、他人や自分の罪にも左右されない真の平和です。

3.ただ御子によって

この平和は「ただ御子によって」与えられました(20節)。他の何ものも神様との罪の関係を回復することはできません。ただ、イエス様の十字架だけが、私たちの罪を一切無いものとすることができます。

<思い巡らし>

ただイエス様の十字架によって、私たちは真の平和を得ます。