行って洗いなさい

 ヨハネによる福音書9章1~12節   

イエス様が生まれつき目の見えない人を癒します。弟子たちは、目が見えないのは当人や親が罪を犯したからなのかとイエス様に尋ねますが、イエス様はそれを否定して「神の業がこの人に現れるため(4節)」なのだと応えます。

1.行って洗いなさい

 イエス様は目の見えない人の目に、自分のつばでこねた泥を塗り、池に行って洗うように言います(6~7節)。彼は素直にそれに従い、目が見えるようになって帰ってきました。目に泥を塗るのは不思議な行動ですが、そのことを通して、見えなかった彼にはイエス様の言葉に応える機会が生まれました。

 もともと彼は自分から「癒してください」と言ったのではありません。だからこそ、イエス様は彼が自分の意志で応えるようにしました。

 指示されたシロアムの池には、ある程度の距離があります。目の見えない彼にとって、それに応えることはまさに信仰の応答でした。彼は「行って洗いなさい」と言われ、行って洗ったのです。あなたにもイエス様の呼びかけがあります。

2.目が見えるようになって

 言われたとおりにして、目の見えなかった人は見えるようになりました。しかし、それは単に目が見えただけでなく、イエス様が本当に救い主だと分かるようになったことも意味します(参考39節)。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(8:12)」と言っています。暗闇の中に生きている人は誰でもイエス様のもとに行きましょう。

3.遣わされた者

 池の名前の「シロアム」は「遣わされた者」という意味です。事実、イエス様は神様に遣わされた救い主でした。目の見えなかった人は、そのイエス様に遣わされて癒されました。そしてさらに今、彼は周りの人々にイエス様がしてくださったことを証しするものとして遣わされています。私たち一人一人も神様が遣わされた場所で応えていきましょう。

<思い巡らしてみましょう>

  主の呼びかけに応えていますか。遣わされている場所はどこですか