自分を無にしても

 フィリピの信徒への手紙2章3~11節    

 

 イエス様の誕生を覚えて過ごすアドベント(待降節)に入りました。まず、クリスマスの本質は何かを聖書の御言葉から心にとめましょう。

1.人間になられた主

「キリストは、…神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じものになられました(6~7節)」と今日の個所に書かれています。一言でいうならば、イエス様は神様が人となった方です。しかも、聖書が私たちに語っている主なる神様は、私たちの知っているこの世界のすべてを造られた方ですから、その方が造られた人間に自らなるとは本当に驚くべきことです。

いわば「自分を無にして」いるのと同じことです。では、なぜそのようなことをされたのでしょうか。それは主があなた(私たち)を愛しているからです。自分を無にしても、私たちの近くに来ようとされました。

クリスマスの日、イエス様は家畜小屋で生まれ、動物のエサが置かれていた桶の中に寝かせられました。人になられた中でも、最も貧しくみすぼらしい姿で来られました。それは、あなたがどんな立場の人でも、会うことができるためにです。

 

2.十字架にかかられた主

 しかも、イエス様は人として生まれただけでなく、その人生をあなたにささげられました。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(7~8節)」とあるように、その生涯を十字架にかかるために生きられたのです。

十字架は、私たちの罪の罰の身代わりです。イエス様はまったく正しい生き方をして罪がありませんでしたが、その最後に「自分を無にして(からっぽにして)」私たちの悪い生き方や罪のすべてをその身に受け取って十字架の罰を受けました。

誰でも、この方を信じる人は赦され、滅びることなく天国の永遠の命を受けます。

 

3.キリストに倣って

 救いを受けた私たちは、キリストに倣って歩み始めましょう。それはキリストを主と証しする生き方であり、キリストのようにへりくだって互いに愛することです。

 

<思い巡らしてみましょう> 

 クリスマスの本当の意味を思い返してみましょう