証言
マルコによる福音書1章53~65節
ユダヤ人の指導者たちは、イエス様を闇に乗じて逮捕すると、そのまますぐに裁判にかけました。それは真夜中に行われた、人間の罪に満ちた不正な裁判でした。
1.嘘の証言と黙して語らないイエス様
イエス様をねたんでいた指導者たち自身が、ユダヤ人の最高法院の構成員でした。ですから、彼らは最初から「死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」のです(55節)。しかし、急ごしらえの裁判でしたので、嘘の証言が互いに食い違って、なかなかイエス様を陥れることができませんでした。
次から次へと続く茶番劇のような嘘の証言を聞き、ねたみと憎しみに満ちた指導者たちの眼差しの中で、しかしイエス様は「黙り続け何もお答えにならなかった」のでした(61節)。それは、人の罪を黙って受けとめ、十字架に持って行く救い主イエス様の姿です。私たちも、いわれのない苦しみの内にある時に、思い出すことができます。あなたのかたわらに、苦しみを共に担われるイエス様がいることを。
2.唯一の真実な証言
ずっと黙っていたイエス様が、最後に一つだけ答えたのは、業を煮やした大祭司の誘導尋問の言葉に対してでした。「お前はほむべき方(神様)の子、メシアなのか(61節)」自分を神のように言えば、冒とく罪が成立して死刑となります。ところが、最も応じるべきでないこの問いに、イエス様は堂々と答えます。「そうです」と(62節)。この「そうです」はただの肯定ではありません。原語では、「私はある」という神様の名前とかけた、「わたしこそ、それだ」という、疑いようのない主なる神であり、救い主であるという宣言の言葉でした。
イエス様は天地創造の神様が人となられた救い主です。これこそが、嘘にまみれた裁判の中で、イエス様がはっきりと、命を懸けて私たちに伝えた証言です。
3.主イエスの証言者
現在の私たちにも、イエス様が主であるという証言が届いています。それは、今日も語られているイエス様自身の言葉から。そして、聖書を通して神様から。さらに、あなたが心を開いて受け入れるなら聖霊があなたの内に語りかけます。
<思い巡らしてみましょう>
イエス様の証言を受け取り、私たちもまた証言者となりましょう