パンと杯
マルコによる福音書14章22~31節
イエス様は弟子との最後の晩餐の終わりに、パンと杯を分け与えて、ご自分の十字架の記念だと教えます。現在、聖餐式と呼ばれるこの出来事の個所を見ましょう。
1.わたしの体、わたしの血
イエス様はパンを裂いて渡し、「これはわたしの体である(22節)」と言われました。また、ブドウ酒の入った杯を渡し、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である(24節)」と言われました。つまり、このパンとブドウ酒は、イエス様が私たちの罪のために十字架で苦しみと死を代わりに受けられたことを思い起こすためにあるのです。特に「契約の血」と言われたように、その十字架には、信じる私たちを赦すという約束(契約)があります。イエス様の苦しみと、与えられた救いを感謝して、パンとブドウ酒を受け取るのです。
2.罪人を招いて
この恵みに満ちたパンと杯の出来事は、実は二つの裏切りの間に起きています。
一つはイスカリオテのユダの裏切りです。ユダはこの後でイエス様を悪意ある人々に売り渡します。しかし、驚くべきことはユダもこのパンと杯を渡されているということです。それは、裏切りを行動に移す直前のユダに対する、言葉を超えたイエス様の呼びかけだったのでしょう。
パンと杯は、主に背を向けようとする人よ、立ち返って戻ってきなさい、という私たちすべての罪人への呼びかけのしるしです。悔い改め信仰を告白し、パンと杯を受ける者となりましょう。
3.信仰の弱い者を招いて
もう一つの裏切りは、ペトロと弟子たちのものです。このパンと杯の直後、イエス様は彼らの弱さをよく知っていて、声をかけます。しかし、ペトロは自分だけは死んでも裏切らないと言い張ります(27~31節)。
結果、やはりペトロは裏切ってしまいます。しかし、イエス様はそのことも承知で、パンと杯を分け与えていました。私たちの信仰も、何かあればすぐ揺らぐ、弱い者です。パンと杯は、それでも弱い私たちを何度も招く主の愛です。
<思い巡らしてみましょう>
パンと杯の意味を思い返し、受け取るものになりましょう。