自分の願い知らず
マルコによる福音書10章32~45節
イエス様は十字架で殺されることを予告しながらも、先頭にたってエルサレムの町に向かって進んでいきます。一方で弟子はピントが外れたことを言い出します。
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1.恐れず願いなさい
ヤコブとヨハネという兄弟が、急にイエス様に願い事をします。イエス様が王様のようになったら、自分たちを側近として取り立ててほしいというのです(35~37節)。言うまでもなく、利己的で、謙遜さのかけらもない、とてもほめられたものではない願いです。しかし、私たちの祈りも得てしてそうなりがちです。
祈りは「お願い事」ではなく、神様(イエス様)と向き合うことです。畏れるべき主の前に進み出すのですから、賛美し、感謝と喜びを告白することこそ、豊かで良い祈りです。しかし、だからといって「願ってはいけない」ということではありません。何でも臆せず、恐れず願い求めていいのです。もし、相応しくない祈りをしていれば、それを悟らせてくださるように、主は応えてくれます。ヤコブとヨハネも、だからこそここで取り扱われ、やがて大きく成長していきます。
2.自分の願い知らず
イエス様は彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない(38節)」と答えます。イエス様がこれからエルサレムで受ける栄光は、王になる栄光ではなく、十字架で神様の怒りを代わりに受けるという苦難だからです。
この「自分の願いを分かっていない」という指摘も、ヤコブとヨセフ同様に私たちにも投げかけられている言葉です。私たちは本当に自分が願い求めていることを、意外と知らないものです。イエス様の御言葉を受けて、自分の心の内を探り、本当に神様に願い求めているものは何かを知ることは、大きな恵みです。
3.イエス様のように
他の弟子たちも、ヤコブとヨセフが抜け駆けしたと思い腹を立てました(41節)。それは、彼らもまた「偉くなりたい」と思っていたことの裏返しでもあります。しかし、イエス様は皆に仕えられるのではなく、仕える者として来られました。イエス様に感動したものの願いは、イエス様のように仕えて生きる姿にあります。