はっきりと見る
マルコによる福音書8章22~26節
人々が一人の盲人をイエス様のところに連れてきました。触れてもらえば治ると信じたからです。彼らの信仰にイエス様が応えました。
1.素直な信仰
実は、この目が見えない人が見えるようになる出来事に先立って、二種類の見えない人たちが登場していました。まずはファリサイ派の人々で、彼らはイエス様をねたんでいましたから、どれだけ奇跡があっても「見ようとしない」人たちでした(11~13節)。逆に、その流れで今日の個所に登場するのは、触れてもらえれば癒されると、素直にただ信じた名も無き「人々」でした(22節)。
信じて求める人に、イエス様は応えてくださる方です。受け取る気もないのに、見せろと言う人には与えられないですが(12節)、信じて求める人には与えられるのです。求めなさい、そうすれば与えられるというのが、聖書の信仰の言葉です。
2.見えるようになる
もう一組の「見えない人たち」は弟子たちです。弟子たちは、奇跡を見てきていましたが、その意義(イエス様が救い主であること)が「見えない」人たちでした。そのことをイエス様から「目があっても見えないのか(18節)」と言われています。
一方で、今日の個所の盲人は、イエス様に触れられて、見えない目が「見えるように」なりました(23~24節)。実際的な癒しの出来事と共に、ここには信仰的な目を開かれるイエス様の姿が示されています。私たちの信仰の目もイエス様ご自身が開いてくださいます。イエス様のもとに行き、向き合い、その見えない御手に触れられることを願いますか? まさに、その願いがきかれることを、今日の個所は約束しているのです。
3.何でもはっきりと
盲人は段階的に見えるようになっていきました。最初は見えても、はっきりとではありませんでしたが、二回目は「何でもはっきりと見えるように」なりました(25節)。イエス様と共に歩み続ける時、真理を見る目が開かれていきます。
<思い巡らしてみましょう>
信じて求めていますか。より主を深く知ることを求めていますか。
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