罪の泥沼

マルコによる福音書6章14~29節

洗礼者ヨハネが殺された経緯を通して、イエス様が何者なのかが語られています。

1.罪人と聖なる正しい人

 始まりはヘロデが兄弟の妻ヘロディアと不正な結婚をしたことでした。ヨハネは臆することなく、それは神様に許されていない罪であると指摘します。その結果、彼は投獄されますが、ヘロデは少しずつヨハネに感化されていきます(17~20節)。
 一見すると、単に不正な結婚が咎められたように感じますが、実際はこの一連の出来事には様々な罪が凝縮して示されています。姦淫という表に出た罪だけでなく、利己心、ねたみ、恨み、殺意といった内なる罪までもが明らかにされています。法を犯していなければ罪にならないということはありません。神様の目には全ての人の心の内までもが見えているのです。神様に従い、その教えに生きるヨハネと、神を恐れず逆ギレする罪人の姿があります。私たちはどちらでしょう。?

2. 罪の泥沼

 悔い改めの機会が訪れる前に、殺意に満ちたヘロディアにとっての「良い機会」が訪れました(21節)。まだ幼い娘が宴会で披露した踊りに、ヘロデが望みの褒美を約束したのです。ヘロディアは娘を操りヨハネの首を手にしました。(22~29節)。
 ここにもまた悪い酒宴、大言吐き、無情、無慈悲、果たせない誓いに、高慢から生まれた見栄など、罪が溢れています。(参考:ローマ1章、ガラテヤ5章)
 悔い改めどころか、ますます罪の泥沼にはまっていく私たち人間の姿がよく表れています。この泥沼から私たちを救ってくれるのは、いったい誰なのでしょうか。

3.イエスとは誰か

ヨハネは正しい人でしたが、罪人の手にかかって死を迎えました。信仰によって
彼自身は天国にいきますが、それは彼だけのことです。しかし、正しい人が罪によって死を迎える様子は、間も無くおこるイエス様の赦しの十字架を暗示しています。
ヘロデ王はイエス様をヨハネの生き返りと思いましたが(16節)、人は生き返りません。けれどもイエス様は十字架の死の三日後に復活しました。ここに救いがあります。信じる者は罪を赦され、永遠の命を得ます。この聖書の福音を信じましょう。

<思い巡らしてみましょう>

自分の内外にある罪は。イエス様の救いを信じて受け取りましょう。