わたしです
ヨハネによる福音書 18章1~14節
受難週です。イエス様が裏切られ、捕まる時の苦難の姿に目を留めましょう。
1.進み出て苦しみを受ける
最後の晩餐を終えて、イエス様は弟子たちのために祈り、弟子たちと共にゲッセマネの園に行きました(1節)。そこに弟子であったユダが夜の闇に紛れて兵を引き連れてやって来ました(3節)。イエス様を捕まえて、ねたみに燃えている祭司長たちやファリサイ派の人々に売り渡すためです。
この時、「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」たと買い
てあります(4節)。裏切られ、捕まり、不当な裁判を受け、鞭打たれ、そして十字架で殺されることを知っているとは、どんな心情でしょうか。想像を絶するものがあります。しかし、イエス様は起きることを知っておられた上で、驚くような行動をとります。「進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。」
しかも、彼らが「ナザレのイエス」を捜していると言うと、イエス様は「わたしです」と答えたのです(5節)。これから身に降りかかる恐怖を知りながら、なお進み出て、自分を差し出すのはなぜでしょうか。その動機はあなたへの愛です。
2.あなたは誰をさがしているの?
イエス様が人々に問いかけた「だれを捜しているのか」という言葉は、今の私たちにもそのまま向けられている問いです。人々は「ナザレのイエス」という、一人の人間をさがしに来たと言います。しかし、「わたしです」と答えるイエス様の前に彼らは恐れおののいて、腰を抜かします(6節)。
誰でも、最初からイエス様を主と信じているわけではありません。しかし、この方を求めて追いかけるうちに、二つのことに気づくときが来ます。
それは、罪のある自分と、その罪を赦すために来られた「人となられた神様」の姿です。ナザレのイエスが、暗闇の中にいる自分のために来られた主であることを気づくとき、私たちは恐れおののきます。
罪のない方が、私の罪のために死ぬとは、何とも都合のいい話ではありませんか。しかし、それこそが聖書の伝えるあなたへのメッセージなのです(14節)。
<思い巡らしてみましょう>
罪人の自分の前に進み出て、命を差し出す方に心を留めましょう。