本末転倒

マルコによる福音書2章23~3章6節

聖書の「律法」と呼ばれる教えで定められた「安息日(七日に一度休んで神様を礼拝する日)」をめぐって、イエス様に難癖をつけてくる人々がいました。

1.本末転倒

イエス様の弟子たちが、安息日に道を歩きながら麦畑の穂をつまんで食べていました(穂をもらって食べるのは律法で認められています)。それをファリサイ派と呼ばれる「律法を守ること」を何より大切にする人たちが、「安息日」に許されない「仕事」だとみなして文句を言いました(23〜24節)。イエス様は聖書の説明をした上で答えました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(27節)」

安息日の決まりも、他の聖書の教えも、本来は神様の愛のゆえに、わたしたち人間が「神様との愛の関係を築き」、「幸いにいきるため」、定められたものでした。そのことを通して、神様との生きた関係を深めることが大切であるのに、ファリサイ派の人々は、本末転倒して、神様そっちのけでルールを守ることだけに熱心になっていました。本来の目的を忘れて、大切なことを見失ってしまうことがありませんか。全てのことに先立って、人間にとって一番大切なのは神様との関係です。

 

2.イエス様は主なる神様

さらに続けてイエス様は言いました。「人の子は安息日の主でもある(28節)」人の子とはイエス様のことを指します。つまり、イエス様こそ、安息日を定めた主なる神様ご自身であるということです。

 

3.神様の愛と人のかたくなさ

次に会堂で安息日の礼拝をささげようとしたイエス様でしたが、そこにいた片手の萎えた人を癒すかどうかをファリサイ派の人々は注視しました。治療行為だと言ってまた難癖をつけるためです。イエス様は彼らの「かたくなな心」を悲しみながら、反感をかうのを恐れずに癒しました。ねたみやプライドなど、私たちの心のうちにある罪が、悪いと分かっていても悔い改めることを妨げることがあります。私たちも「かたくなな心」を捨てて、悔い改めて愛の主イエスに従いましょう。

 

<思い巡らしてみましょう>

神様に目を向けず空回りはないですか。かたくなさを捨てましょう