ゆるせぬ、ゆるす

 マタイによる福音書18章21~35節

イエス様が「ゆるす」ということについて、たとえ話をします。

1.神様のゆるし方

弟子のペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか(21節)」と質問をしました。イエス様は数に限りなく「ゆるす」ように教え、たとえ話を用いて語られました。

ある王様が莫大な借金をしている家来に返済するように言いましたが、家来はひれ伏して待ってくださいとしきりに願いました。それを見て王様は何と彼を赦し借金を帳消しにしてあげました(23〜27節)。

王様は神様を、家来は私たち一人ひとりを、そして借金は私たちの行いに限らず心のうちまで含めた全ての「罪」をたとえています。神様はわたしたちが心から悔い改める時、驚くべきことに完全にそれを赦されるということです。

 

2.人のゆるせなさ

一方で、借金を帳消しにされた家来は、外で自分が金を貸している仲間を見つけました。すると、彼に金を返せと言い、しかも伏して待ってくれと願う相手をゆるさずに牢に入れてしまいました。

家来は私たち一人ひとりを、そして仲間は自分に罪や負い目のある人のことをたとえています。家来が仲間に貸していたお金は、自分がゆるされた額(現在に換算すれば6000億円)とは比べ物にならないほど小さな額ですが、それだけ見れば放ってはおけない額です(同100万円)。ゆるされたことはさておき、私たちは人の ことをゆるすことがなかなかできない、そのことを教えています。

 

3.ゆるせぬ、ゆるす

王様は家来を次のように言ってとがめます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか(33節)」

「ゆるせぬ」を「ゆるす」には、神様がいかに私たちを愛によって赦してくださっているか知ることが不可欠です。赦されてこそ赦すことができ、愛されてこそ愛することができます。神様の愛と赦しを真剣に求め、受け取りましょう。

 

<思い巡らしてみましょう>

神様の愛と赦しを聖書から学びましょう。主のように赦しましょう