悪意と悪事を捨てる

エフェソの信徒への手紙4章25節~5章5節

イエス様に従って生きる歩みはどうあるべきか、具体的なススメが続きます。

1.悪意を捨てる

 使徒パウロを通して聖書は信仰者の生き方において、まず悪意と悪事を捨てるように教えています。言い方を変えれば、内面的な問題と、実際に行動に出てくる問題について、それを素直にいったん捨てましょうということです。
 まず、悪意の例として「怒り」について語られます。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。 日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません(26節)」
  「怒り」自体は神様が造られた人間に備わる、ごく普通の感情です。聖書は感情の動きを罪とは呼びません。 しかし、日が暮れても、寝てもさめても、怒りに支配されることを警告しています。なぜなら、罪とは本来の主である神様以外に支配されている状態を言うからです。怒りの問題は意外と多くの人に知らず知らずのうちに根付いています。 自分のうちに怒りや、その他の悪意の支配がないでしょうか。

2.悪事を捨てる

 捨てるべき悪事の例として「悪い言葉」があげられています。「悪い言葉」として具体的には嘘・偽り(25節)や、みだらで下品な話や貪欲な物言いが語られています(5章3~4節)。ほかに「盗み(28節)」という実にわかり易い悪事も扱われていますが、特に言葉の問題が取り上げられているのは「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである(マタイ12 : 34)」とイエス・キリストが言っている通り、全ての悪事の始まりに言葉があるからでしょう。
 いずれにせよ、悪意と同様にそれを素直に捨てることを聖書は教えています。

3.どう実現できるか?

 とはいえ、素直に捨てるのは難しいものです。そのために大切なのは、第一に捨てる決心をすること。第二に私たちを守ってくださる主イエスを心に迎えること。最後に捨てた悪に代えて新しい習慣を身に着けることです。怒りには赦しを、悪い言葉には人を立て上げる言葉を、そして貪欲には感謝を代わりに求めましょう。

<思い巡らしてみましょう>

捨てるべき悪意、悪事はありますか。決心と新しいスタートを。