不自由なのに自由ぶる人

マルコによる福音書 5章1~20節

イエス様に出会った異邦人、第三回目は文字通り悪霊にとりつかれた男です。

1.本当の自由を与える

イエス様が湖の向こうにある異邦人の土地(=外国)に渡ると、悪霊にとりつかれた男性に出会います。彼は墓場に住み、鎖も足かせも壊して叫びまわり、自分を傷つけて日々を過ごしていました。数千の悪霊に支配されていたのです(1~10節)。
「だれも彼を縛っておくことはできなかった(4節)」と聞けば、自由に好きなようにしていたようにも思えますが、実際は無数の悪霊に支配され、自分を完全に失っていた人物です。自由に生きるつもりが、実はがんじがらめで叫んでいる人、自分を傷つけて止まらない人、私たちの中にもいませんか?
また、ここはユダヤ人の土地ではないので、「豚の大群(11節)」が飼われていました。豚は日本では重要な食料となりますが、ユダヤ人は律法に従って食べることはない動物です。こうした制限や、色々な習慣などを見て「宗教は不自由」というイメージを持つ人も多いものです。では「無宗教が自由」でしょうか。
今日の箇所では、豚の群れに悪霊が逃げ込んでいき、男性は正気に戻りました。ところが、町の人々は人生を失っていた男性が救われたことを喜ぶどころか、この出来事を恐れてイエス様に出ていくように言いました。素晴らしい救いがあっても、自分の知らないことや、皆と違うことを恐れて排除しようとする人間の罪の姿がここにはあります。聖書は神様から離れて生きる時、人は自由なつもりで実は「罪の奴隷」だと教えています(参照:ローマ6:20~21)。
不自由なのに見栄を張って自由ぶって苦しむ人がいます。自由に生きているつもりで実は罪の人生に縛られている人もいます。私たちの本当の姿はどうですか?

2.人生に意味を与える

イエス様を信じる人は本当の自由を得ます。そして自由の中で、主イエスに従おうとする人は「生きる意味」を知ります(18~20節)。主に従うことは不自由になることではなく、真の意味で人生を自由に生きることのはじまりです。

<思い巡らしてみましょう>

自由でしょうか? 不自由でしょうか? 人生の意義を感じていますか?