キリストの受難

   マルコによる福音書15章1~41節     

 

  受難節に入り、改めて「自分の罪深さと十字架の赦し」を想う時が多いと思います。その一番の中心にある「イエス様の受難」から、神様の愛のご計画に目を留めていきたいと思います。神の子でおられるイエス様だけが実現することのできた神様のご計画からたっぷりと神様の恵みを受け取りたいと思います。

 

 

1.十字架に架けたのは誰か(12~15節)

 イエス様は、夜が明けるとピラトの手に渡されました。ピラトはユダヤの総督として任に着き、十字架刑の執行はピラトの審判に任されていました。そのピラトの本心はイエス様に悪事を見出すことはできませんでした。そして、イエス様を救うため過越のお祭り中でいつも行われていた「囚人の釈放」に、イエス様と罪人バラバをたて、群衆に選ばせました。群衆は、バラバを選び、そしてイエス様を十字架刑にすることが決定しました。ピラトは、正義より群衆からの人気を選びました。そして、群衆はイエス様を十字架に架けさせたのです。群衆は、数日前にイエス様を大歓迎して、エルサレムにお迎えした人たちです。人の心は移ろいやすいのです。神様への信仰に固く立つことができない私たちの姿でもあります。

2.罪のない罪人の苦しみ(29~32節,34節)

 イエス様は、罪がないのに死刑囚の姿にされました。そして罵られ、拷問にあわされ、十字架を担いだ姿で、屠り場までさらし者にされるのです。私たちは、些細なことでも、自分の正義をかざし、自分自身を守ります。そして、人目を気にして、体裁の良い姿を求めます。この自己防衛は、自然に心から湧き上がり、無意識に行ってしまうのです。罪のない罪人とされたイエス様は、黙っていました。そして、命の尽きる時だけ父なる神様に叫ぶのです。人となられたお姿で「わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」。すべてに裏切られたこの苦難に黙って身を委ねられたお姿こそが、神の子であり、人を救うことのできるお方である証しのお姿ではないでしょうか?

3.神の子である姿を現した十字架(38~39節)

十字架のイエス様は、真っ当に見ることのできない残虐なお姿で息を引き取られていました。神の子でなければ、王の王、主の主であられるイエス様でなければ、決して成し遂げられない神様の愛をかけた救済計画であったと思います。十字架で死なれたイエス様こそが私たちの王であり、救い主である証しです。父なる神の王冠は、十字架のイエス様の頭上に輝いているのです。

<思い巡らしてみましょう>

 十字架の上で死なれたお姿こそが、救い主であり、王の王である証しです。神の子イエス様を十字架に仰いでいきましょう。