民数記 11章18~34節
「肉を食べたい」と不満を叫ぶイスラエルの民に、主が応えます
1.貪欲という罪
民の不満に対して主は肉を与えると約束しましたが、民の 「食欲」の罪を指摘す ることも忘れませんでした(18~20節)。「貪欲」の源には 「主を拒む(20節)」ことがあります。主では足りない、と神様を拒み、他のものを飽き足りることなく求め続けます。この主なる神様を退けて、自分の欲望を主人とする姿こそ、アダムとエバの時から今に至るまで変わることのない人の原罪の姿です。
2.聖霊の満たし
肉を,与えるのに先だって、神様はまずモーセを支える指導者たち(70人の長老)に聖霊(神様の霊)を与えます(24~30節)。これはモーセの求めに対する主の応答でもありますが、同時に”「聖霊を求めること」の大切さをも教えています。
聖書はこう教えています。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません(ガラテヤ5:16)」
肉の欲望に耳を傾けることは、どこまでいってもキリがありません。逆に、聖霊に満たされることを求めて祈ることは、貪欲から身を守る有益な手段です。
3・無欲の人と貪欲の墓
主は奇跡をもって 「うずら」を民に与えます。ところが民は食べ切ることができないほどの量をため込みました。奇跡を目の当たりにしても信頼せず、ただ貪欲を続ける民に、ついに神様の怒りがくだりました(32~33節)。
一方で、足りないものを探し続け、求め続けて飽くことない民とは対照的に、モーセは実に無欲な様子を見せています。自分に与えられた聖霊が他の人々に与えられることをねたむどころか喜びます(29節)。この差は何なのでしょう。
第一にモーセは「主に目を向けていました」。第二にモーセは足りないものではなく、与えられている恵みを数えることを知っていました。そしで第三に、聖霊よって満たされ続けることで変えられてきたのでした。
く思い巡らしてみましょう>
貪欲がありますか?最後に書いた三つのことを実践してみましょう。