板ばさみはもう嫌だ

民数記 11章1~17節

神の民として出発した人々でしたが、すぐに不平不満を言いだします。

1.板ばさみの苦労

食生活に不満をいいつのるイスラエルの民に対して、主なる神様は火を燃え立たせて懲らしめます。これまでと違い、厳しく民を訓練する主の姿が見えます(1節)。

 

その中で苦労するのが、神様と民の間に立つ指導者であるモーセです。不満を言う民のためにとりなし祈り(2節)、一方で神様の愛と深い計画の御心も知っているがゆえに主と共に苦しみます(10節)。まさに板ばさみ苦労です。

 

神様の御心を求め、知り、そして従う人は必ずモーセと同様に苦労を得ます。しかし、それは正しく主に従っている証しでもあります。イエス様も神様と人の間に立って十字架にかかられました。主イエスのあとに続く者としては、大きな恵みではないでしょうか。苦難は忍耐を、忍耐は練られた人格を、練達は希望を生みます。

 

2.主に泣きつこう

しかし、忍耐と我慢は違うものです。我慢は元々、自分の弱さを見せまいとする慢心の姿を表しています。聖書の教える忍耐は、自分の弱さを素直に主に打ち明け、もっと簡単に言えば「泣きつく」ことから始まります。

モーセは民が「重荷(11節)」だと素直に主に告白します。そして、自分の一人の力では「負うことはできない(14節)」と泣きつきます。

主イエスは言います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マクイ11 : 28)」苦労の中に見いだす希望は、素直に弱さを認め、私たちのために苦しみを受けた主イエスに頼る者にあります。

 

3.あなたは一人じゃない

主はモーセに二つのことを約束されます。一つは「あなたと語ろう(17節)」。もう一つは70人の「重荷をあなたと共に負う」仲間たちが与えられることです。主に頼る者は一人ぼっちではありません。主ご自身が、そして共に主に仕える同労者たちが、一緒に歩んでいることに気づくでしょう。

 

<思い巡らしてみましょう>

どんな苦労の内にいますか? イエス様に泣きつきましょう