伝統的プロテスタント信仰に根づく教会です

ローマの信徒への手紙 5章1~2節                   

 

 私たちは、イエスキリストを信じる信仰によって義とされています。義とされているとはどういうことなのでしょうか?パウロの教えに耳を傾けたいと思います。

 今日の個所では、同書1章18節~4章25節の全体を受けて書かれています。3つの言葉に目を留めて、信仰による義ということを考えてみたいと思います。

1.信仰による義

「義」とは、神様と人とも関係が正しい関係にあることを意味しています。つい、義と聞くと、行いや、人の振る舞いにおける正しさ、また正義と考えがちですが、

神様を神様として、そして人は人として関係を気づくことを意味しています。しかし、アダムが神様に背いたときから、神様と人との関係は壊れてしまっています。そして、旧約の時代には律法を人に与え、神様は関係修復に最善を尽くして下さいましたが、回復することはできませんでした。新約の時代、神様は独り子を犠牲にすることによって、成し遂げられなかった神様と人との関係を、独り子であるイエス様を信じる信仰によって、完全に回復するのです。

2.今の恵み

 人は、アブラハムの時代から、「信じることによって義とされる」約束を、神様と交わしています。(創世記15:6)律法は、神様を信じて生きる人に与えられた生き方の指標です。神の民として生きるために、神様が私たちにくださった恵みのプレゼントです。しかし、人はいつしか、そのことを実践した結果、神の民となれると思うようになりました。その結果、生きることへの不安と恐れを心に生み出します。しかし、イエス様の十字架により、神様は、人を義とされるだけではなく、生きる希望を与えられました。信じる者は、神様が私たちの内に住んでくださることで神様から来る平安をもって、日々生活できるのです。

3.希望の誇り

 「信仰により義とされた」者は、その人自身が神の国となります。聖霊なる神が私たちを導き、力を与え、善悪を悟らせ、導いて下さいます。そして、終わりの日には、私は「神の義」へと変えられていくのです。神の国と神の義を求め(マタイ6:33)、神の国に国籍のあるものとして、日々胸を張って生きて行きましょう。

<思い巡らしてみましょう>

  神様との関係に目を留めていますか?御言葉を恵みとしていますか?