2020年11月24日 火曜日

5/17 礼拝説教要約 「感謝する」

 私事ですが、この度2週間の「糖尿病教育入院」をしました。おそれていたインシュリン注射は回避出来て、従来通り、経口血糖降下剤の服用を続けていけば良い、との診断でホッとしたところです。「但し入院時のように適切な食事と運動を継続するように」と、主治医から指導を受けました。ヘモグロビンA1cの値が改善されるように、きちんと生活ペースの確立に努めたいと思っております。

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 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って体を見せなさい」と言われた。彼らはそこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

                 (ルカによる福音書17:11-19)

  重い皮膚病を患った人たち、この人たちは社会から締め出されて集団を作って何とか生きていました。その境遇は惨めなものでした。ですから主イエスに出会って、「癒やしてください!」と叫ばず、「憐れんでください!」と叫んだのです。イエス様はその人たちを見て憐れみをかけられました。その「重い皮膚病」を癒やしたのです。祭司に体を見てもらい、皮膚病の完治を承認してもらって、社会復帰が可能となるのです。

 ところが癒やされた十人のうちで、イエス様のところに感謝するために戻ってきたのは、たった一人でした。九人は、主の恵みの癒やしをまるで当たり前の当然の権利のように、感謝せずスルーしてしまったのです。

 なんということでしょう!しかし、この九人のような振る舞い方を私たちがしないとは限りません。イエス様が十字架にかかり、流された血潮によって、私たちは罪の奴隷から買い取られて自由になったのです。その尊い十字架の恵みを知らんぷりするような「恩知らず」にはなっていないでしょうか?ハッとさせられます。

 しかし神様の恵みから遠いと思われていたこのサマリア人が、イエス様に感謝するために戻ってきました。「感謝する」という言葉は「正しく」と「恵みを受け取る」という語から成っています。神を賛美し、感謝を現したこのサマリア人に、正しく神の恵みを受け取ったこの人に、イエス様は「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と声をかけておられます。

 私たちは主イエスの十字架によって神様との橋渡しをして頂き、何でも望むところを祈り願う事が出来ます。その祈りが応えられたとき、私たちはちゃんと感謝しているでしょうか?請求書ばかりつきつけて、叶えられた時にちゃんと領収書を発行しているでしょうか?

 2週間ぶりに帰宅したとき、花壇のジャーマンアイリスと芍薬が見事に咲いていました。パンジーの花鉢も水やりの奉仕のおかげで、盛んに咲き誇っておりました。留守宅が守られたばかりでなく、チャペルを美しく装わせてくださっている!「神様、ありがとうございます」の言葉が出ました。どんな時でも、どんな状況でも、幸いなことに恵みを見出すことが出来ます。

 主の恵みを正しく受け取り、「賛美と感謝」の日々を過ごしたいと願っています。主の御名はほむべきかな。

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