伝統的プロテスタント信仰に根づく教会です

  ヨハネによる福音書4章28~30節           

 

 勝田教会創立71周年記念礼拝

特別説教 喬木教会 伊奈聡牧師

 

 初めまして、喬木教会から来ました伊奈聡と言います。喬木教会の「喬木」は、「高い木」ではなく、「橋」のつくり、「喬」に木です。

今日は、勝田教会の創立記念礼拝ということで、おめでとうございます!この時、教会の使命を確認し、ますますの発展を遂げる教会となりますように祈ります。

そして、この度は声をかけていただきまして、ありがとうございます。

皆さんにとっては、「あいつ誰だ?」みたいな感じでしょうね。でも安心してください。僕も同じ気持ちです。

週報に、光先生が皆さんが私と会った時に、驚かれないようにと丁寧な紹介文を書いてくれました。「ヤンキー」って、本当は全然そんなことないですよ。御覧の通り、いたって真面目な、普通の青年でした。

それにしても、こちらの鈴木光先生、彼とは古い付き合いでして、僕は彼が中学生の時から知っているんです。

鈴木先生、今でこそニコニコしていますが、中学生の頃は、何が楽しくて生きているのか。いつも会うとイヤホンを耳にして、何を聞いているのか、自分の世界に籠っているような少年でした。

牧師家庭に育った彼ですが、やがて本当の意味でイエスさまに出会ったのでしょう。明るくなりまして、よく喋るようになりました。

私は2000年から喬木教会に赴任しているのですが、光先生は学生時代、長期休みになると必ず喬木に来てくれました。生まれたばかりの娘はよく彼に遊んでもらいました。

ある時、喬木では手に入らなかったテレビゲームを、東京から来る光先生に買ってきてもらって、徹夜でゲームをしました。ところが、私の妻はゲームが大嫌い(?)なんですね。私はその妻に内緒で光先生に買ってきて貰っていたのです。それなのにゲームをするわけですから、当然ばれるわけです。そうしたら「ゲームを持ってきた」ということで最初は「光くん!!」と鈴木先生が妻に怒られました。さらには「買ってきた」と聞いてさらに妻は怒ります。私は恐れまして、「いやぁ、光が買ってくるっていうから」と。光先生はさらに焦って、「いや、だって、これ、買ってきてくれって頼まれたから」とアタフタしていまして、とてもかわいい姿を見せてもらいました。

あの時の青年が、今はこんな中年(?)になって。しかも素晴らしい働きをする牧師に成長している。本当に感動し、とても嬉しく思っております。

私のことも少し。

私は、横浜市に生まれまして、高校卒業後、アメリカに留学。でもそこでクリスチャンになりました。アメリカで神学校に行きたかったのですが、日本で伝道するように導かれまして、僕を導いた牧師が東京聖書学校卒業ということで、私もそこに入学させて頂きました。

1998年に卒業。保険の営業マンをやりながら、吉川教会で2年間伝道師をしまして、2000年から喬木教会に遣わされました。喬木に遣わされて18年。今度が19年目になります。

当初私の計画では、10年もすれば100人くらいの教会になっているかなぁと考えていましたが、難しいですね。特に村社会ですから、因習も強いですし、結構大変です。

必死に伝道していますが、現在礼拝は皆さんの半分にも及ばない状態です。

村社会の中で、「教会」というのは特異な存在です。

皆さんに、私が牧師ですと紹介すると、「牧師のイメージと違いますねぇ」という返事が返ってきます。

考えさせられますね。牧師のイメージって何なのでしょう?

ちょっと前まで、私はよく「ヤクザ」と言われました。

鞄を買いに行ったある日、お店の人が「これが良いですよ」と勧めてくれるカバンがありました。理由を聞くと、「鉄砲の玉も貫通しないんですよ」と。

「こっちがいいな」と別のカバンを指しますと、「これですか?これは…ナイフは大丈夫ですが、鉄砲はちょっと防げないんですが…」と教えてくれるのですが、私、ナイフや鉄砲の危険性のある職業ではないですから。

最近は年を取って、丸くなったせいか「ヤクザ」とは言われないのですが、「警察の方ですか」と言われます。理由を聞くと、警察の方もヤクザみたいにおっかないんですって。何にせよ、鉄砲やナイフには気を付けなければならない職業と思われるようです。こんなに優しい目をしているのにねぇ。

それから村の狭い社会ですが、最初に越した時、牧師は変わり者だからと、隣組に入れて貰えなかったのです。だから裏では「8部」と言われる部に属しています。「村八分」のことです。

「牧師」、「教会」、「クリスチャン」。それは都会ではお洒落なブランドかもしれませんが、村では「変わり者」の代表のような感じです。

でもそこで思うのです。世の中、ちょっと変わっているくらいが楽しいだろうなぁと。

「ノーマル」、「常識的」、「普通」。それらは安定・安心ですし、必要でしょうが、それだけだと面白くないでしょう。ちょっと「変」なくらいが人生に味がついて、ちょうどよいのではないかと思うのです。

もし皆さんが、旅先のどこかで食事をする時、どのような店に入るでしょうか。

今回、私が高速を降りて、街中をちょっと走りますと、私の地元にはないお店もいっぱいありましたが、見覚えのある店、チェーン店もたくさんありました。

チェーン店だと、大体中の造りも、店員の反応も同じですよね。だから安心できます。でも旅の楽しみはそこにあるでしょうか?

昨晩は、美味しいお寿司を頂きました。私たちの地域は山ですから、山菜は豊富ですが、刺身はイマイチです。そんな中で昨晩、美味しいお寿司。もう口に入れた途端、「来てよかったぁ」と、海の恵みにあずかりました。

やっぱり旅に出たなら、その土地ならではの味とか、そこならではの特別なものに巡り合いたいですね。それは、日常の「当たり前」から飛び出して、少し変わった趣、変わった味のものに巡り合いたいでしょ。

主は私たちに、「あなたがたは地の塩、世の光」と言われました。

もし世の人々と同じことしか考えない、やらない、というのであれば、どうやって塩の持ち味を発揮するのでしょうか。世の人と同じことしかしないなら、昼間の行灯と同じです。光の役割を果たせません。

ちょっと変わっているから、注目される。印象に残る。良い証しを立てられるわけです。その意味で、私たちは大いなる変人になりたいものですね。アーメン?

今日の聖書箇所は、有名な「サマリアの女」。今日は内容的には、全体なのですが、読んで頂いたところは最後の部分のみです。今日はその「サマリアの女」から、「変」をキーワードに御言葉に聴いていきたいと思います。

物語を簡単に見てみますと、サマリアの女とイエスさまが出会ったという内容です。

女は、真昼ごろ水汲み。そこで主に出会います。

主は「水を飲ませてくれ」と。女「仕方ないねぇ」。水を汲んであげようとすると、主が言うわけです。「私のあげる水はすごいぞ。乾くことがないんだぞ」。女は訳わからなかったでしょうね。「くれ」というからあげようと思ったら「私が与えるぞ」というのです。女は仕方ないので「じゃぁ頂戴」と返事します。

どうにも会話が成立していない気がします。女は、「この人は変な人」と思ったでしょうね。そんな中で主はこの女の現状、生活を言い当てたのです。「5回結婚していたが、今一緒にいる男性とは結婚していない」と。女は驚き、水瓶を置いて、町に行って預言者がいる!!メシアかもしれない!!と人々を連れてきた、という内容でした。

主は変な人と思われていましたが、そう思っていたこの女にも「変」が生じるのです。そして今日はここから、恵みによって「変」になる幸いを覚えたいと思います。

  • 「変」は、流れを変える=変更(414)

女にまず注目しましょう。彼女は5回離婚したといいます。結婚は、1回すればコリゴリでしょ。2回したら、もう3回目はいらない、と思うものだと思います。結婚って、それくらいに大変です。

うちの教会員。ご婦人が先に救われました。永遠の命に感動し、帰ってご主人に伝えます。「イエスさまを信じたら、永遠の世界でも一緒にいられるのよ。あなたも信じない?」するとご主人が言いました。「お前との関係は、この世だけにしてくれ」。

結婚は1回でも大変です。その上に「離婚」。この「離婚」は結婚以上に大変といわれます。

また当時のしきたりもあります。

法的には離婚は3回まで許されていました。でも戒律の厳しい世界です。1回でも離婚していたら、肩身が狭かったことでしょう。そこで5回です。こんなに離婚を繰り返す女、人々からの好奇心、噂話の的になるのは当然だと思います。だから彼女は人がいない真昼ごろに水汲みに来たわけです(この地域、真昼は地面で卵が焼けるほど暑いそうです。だから通常人々は水汲みという重労働は朝か夕、涼しい時に水を汲みに来ていたのです)。

それにしてもなんで彼女は結婚を繰り返したのでしょう?

やっぱり「孤独」だったからでしょうね。その「孤独」は、心に乾き、「満たされない」という思いをもたらす。主はそれを生ける水によって「満たす」と言われたのです。

この「乾き」、「孤独」については、現代人もよく理解できるかと思います。

大体「孤独」は独りぼっちのところよりも、人ごみの中でこそ感じるといわれますが、どうでしょう?

そして現代人は、この孤独をスマホ、酒、仕事、恋人、ペット、趣味などで満たそうとします。

ネットで調べたところ、アルコール依存症とその予備軍に入る人は、290万人程いるらしいです。この人数は何を表す?お酒がうまいということ?違いますね。皆、満たされていないということです。何かで満たされたいと願っている人が多い、ということです。

皆体験していることと思う。クリスチャンになる前、やっぱり満たされない思いを抱えていたのではないでしょうか。

自分はアメリカに行った。「暇」という問題を抱えました。日本語で書かれた本と出会いました。最初は「女性を口説く際に、カッコいい言葉でも探そう」というつもりで読みました。でもそこで主との出会いを体験したのです。衝撃でした。「こんな人がいるの!?」。すぐに聖書にはまってしまいました。時間さえあれば聖書を開き、主の言葉を聞くのです。結果、人生の流れが変わってしまった。

教会に行くようになりました。主と共に歩むようになりました。主のように歩みたいと、心から願いました。本当に変わったんです。

受洗後、しばらくして気づきました。「あれ?虚しさはどこに行った?」。

私たちの心の中には、神さまにしか埋めることのできない部屋があると言われます。そこに主を迎えないと、常に虚しさ、孤独と付き合うことになる。

世の中は、購買力をあおるためにも、私たちの虚しさにフォーカスをさせます。虚しさへと導く流れを作っているのです。この流れに乗ったままだと、サマリアの女のように、幸せをつかもうと結婚しては、裏切られたと離婚し、さらに深く傷つく、そんな人生を繰り返すことになります。

私たちは誰でも、主を心にお迎えする必要があるのです。主をお迎えする時、主は乾くことのない水を私たちの心に与え、これが泉となって湧き出て、その水の流れによって、私たちの人生の方向が変えられていくのです。

  • 「変」は、人が変えられる=変身(428)

主と出会った女は、町に行きます。自分の噂話をし、白い目で見る人々のところです。そこは居心地の悪くい場所だったでしょうし、憎んでいる人々だったことでしょう。なぜ彼女はそのような人々のところに行ったのでしょうか?

主を心にお迎えしたので、彼女の心が変えられたのです。これまで、自分の心を満たすために、自分のことしか考えていなかった彼女が、主を心にお迎えする素晴らしさを、皆にも知ってほしいと、人の幸せのために、主の事を伝えたくなってしまったのです。

主を知ると、その人の内に、大きな変化が生じるものなのです。

でも確かに、通常の生活の中でも、うれしくなると、そのことを人に伝えたくなるものです(人の秘密も、知るとうれしくなりますね。「ここだけの話」。これを枕詞に、大体13人程の人に語ってしまうそうです)。嬉しい事は、人に語る。

主を知りますと、その人は、自分の内側の喜びを人々の前で表現する者に変えられてしまうのです。

そして本当に嬉しいことは、やっぱり「愛されている」という実感を持つ時でしょうね。

教会に来ると、「罪人」と言われるから、嫌がる人がいるそうです。

自分は「当然そうだろう」と思っていました。それだけではない、人の罪深さは「仕方ないもの」と諦めていたどころか、開き直っていました。でもこの自分のこの罪を全て背負って主が身代わりに十字架につき、命を懸けて贖ってくださったと知った時、胸が押しつぶされました。自分の愚かさのために、偉大な神の御子を十字架につけたのです。

そしてそこまでして愛を全うしてくださった神に、感謝と感動の涙が止まりませんでした。

聖餐式の度に、その十字架を思い起こしては涙を流し、一緒に鼻水も流れ、ティッシュもハンカチも持ち歩かない私は、手でそれをぬぐっては、会堂の椅子にこすりつけ…皆さんの座っているベンチも、その跡があるかもしれませんね。

この愛を知ってからというもの、愛されている喜びが湧いてきてしまうので、会う人、会う人に、嬉しさのあまり、主のことを紹介し、人々を教会に誘いました(来てくれた人は少なかったけど)。

あまり相手にもされなかったのですが、でも言いたくて仕方なかったのです。教会に行くのも楽しみでした。そんな中で牧師への道へ導かれたのです。

実は私の実家は、町工場を経営しています。父が起業し、そこそこ立派な会社になりました。すると周囲の人々は、私が跡を継ぐだろうと期待します。でも父は「お前の人生だ。お前の好きに生きろ」と言ってくれていました。これがまた感動しました。この父の優しさに応えて、「跡を継ぐべきだろう」と思わされたのです。

でも、主との出会いの嬉しさを経験しました。主の愛に満たされることで、心の傷が癒され、虚しさに満ちた心は平安と喜びに満たされ、争い、いがみ合い批判大好きの心には平和が湧いてくるのです。

この神を知り、愛され、赦されている喜びを知った時、私は完全に変えられました。世の富、人々からの期待、常識、伝統。すべてを乗り越える者へと変えられたのです。

父は、「好きにしろ」と言ってくれましたが、やはりどこかで「継いでもらえたら」とは思っていたそうです。でも天に召される前にイエスさまを信じ、私に言ってくれました。「お前が一番親孝行だな」と。

主に愛される喜びを知る時、人は変えられるのです。

それまで、過去の自分を見ては、後悔と罪責感に悩まされ、何をやるにしても希望を持てず、「人生こんなもの」と諦めてしまっていたかもしれません。敵対者がいて、悩まされ、苦しめられ、人を赦すことも、隣人愛を実践することも無理と思い込んでいたかも知れません。自分の人生、自分の事で手一杯だから、人のことまでかまっていられないと感じていたかもしれません。

でも、主の愛を受ける時、心には大きな喜びが沸き上がります。平安で満たされます。主の愛が心に注がれ、これがあふれ流れるようになるのです。その時、神さまに愛されている自分を、自分でも愛することができるようになり、愛されている余裕をもって隣人を受け入れることができるようになり、主が共にいて下さるゆえに、その素晴らしさを人に伝える者に変えられていくのです。

主の愛によって、愛を伝える者へと変身しましょう。

  • 「変」は、町全体が変えられる=(周囲も)変化(442)

女は町の人に主を紹介しました。町の人々は女の言葉を聞いて、何事かとやって来ました。最初は、人の生活を言い当てた預言者というか、占い師的な、物珍しいものを見に来た感じだったことでしょう。だが、人々は主を見て、話を聞いて、そして彼らは告白するのです。

「私たちがイエスさまを信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです」。

主は、主を信じると、その人の内側に泉が湧く、と言われました。泉というものは、流れを作って、周囲をも潤すものです。周囲は潤されるとどうなるでしょうか。草を芽生えさせ、植物は実を付けるようになるのです。周囲が変化していくということです。

私も今年度いっぱいでしたが、近隣教会の代務をしました。説教は今月の第一週が最後でした。その後、お別れの感謝会をしてくれたのです。

皆さんが一人ずつ感想を述べてくれました。多くの方が「教会が明るくなった」と言われました。何しろ前任者との関係において、大きな痛みを負って、無牧になった教会だから、確かに最初は暗かったんです。メッセージで笑ってもらおうと思っても、みんな、下を向いて、口角をちょっと上げるだけ。なかなか暗い雰囲気が取り除かれませんでした。でもいつの間にか、よく笑ってくれるし、楽しくなったのです。礼拝も、10名そこそこでしたが、最後には20名くらいになっていました。それは私が泉だからでしょうか?確かにそうかも知れないのですが、でも泉にとって重要なのは、湧いてくる水です。水が流れているかどうかです。水が流れてさえいれば、周囲は自然と変わってくるのです。

代務していた教会の例をあげます。教会の出席者が増えましたが、私は月1回行くだけですので、何か特別なことはしていません。むしろ教会に来ている皆さんが、主を信じることで、生ける水を貰ったから、その水が流れて周囲を変えて行き、その結果、人が増えていったのです。

私たちは生ける水を流し出す泉になったのです。その泉から、水は流れていますか?この流れの中にいる時、私たちの心の汚れは清められ、傷は癒され、虚しさは恵みによって満たされていますよ。そしてその水は、周囲の人々をも潤し満たすのです。

もし今、その泉に蓋がしてあるなら、それを取り除きましょう。蓋とは、不信仰です。主の愛を信じ切れないこと、主の御業に期待できないこと、自分の努力こそがすべてだと思っていることなどです。

蓋を取り除きましょう。そうしたら、荒れ野に川ができるほどの水を流すようになります。それは砂漠に花を咲かせるような力になります。

日本は、伝道が難しい国とは言われます。確かにそう感じる出来事が多いです。でもだから諦めますか?諦めませんね。私たちから流れでる水は、この不毛な地と言われる日本をも潤し、満たすことができるはずです!!

主の働き、その言われる内容も、かなり変ですよね。

弟子たちに言いました。「目を上げて畑を見よ。色づいて刈り入れを待っている」と。いや、実際は「刈り入れまで4か月ある」と言われているので、実際には収穫の時はまだなのです。でも主が言われるのは、「今が刈り入れ時だ!!」ですよ。「違います」と答えられるところです。それが信仰なら、本当に信仰って、「変なんです」ね。世の中が見るように物事を見ないんです。

先日うちの教会に招いた人が言っていました。「私たちは変に賢い」と。そしてその「賢い」部分は取り除く必要があると言われました。賢いと、常識的に考え、判断し、行動するので、間違いはないわけです。そしてそれが「正論」と呼ばれます。でもその講師は言いました「正論はつまらん!!」。

本当にそうでしょうね。信仰の世界は、滅茶苦茶であればある程、面白い。なぜならこの世の常識を外れるからです。刈り入れ時ではないのに、主に従うならそれが刈り入れ時になってしまうのです。それはもう非常識、変な人の行動でしょうが、実際に信仰の収穫を得られるのです。

主に従うことが「信仰」ですから、信仰の世界は、「変」で良いんです。神の国は、この国の常識をはるかに超えたところにあるものなのです。神の国の常識で生きている人は、この世の常識に捕らわれないし、捕らわれてはいけないのですね。

私たちは、信仰によって生ける水を流してみましょう。その時、あなたを中心に「変な人」が集まりますよ。そしてあなたから流れでる水で、花を咲かせる人々が増えます。

信じる力を過小評価することなく、信仰のチャレンジをし続けよう。