骨肉の愛と争い

 創世記 29章9~30節

 兄に憎まれ実家から一人で逃亡したヤコブは、伯父にあたるラバンの住む土地にたどりつきました。

1.骨肉の者

 伯父のラバンは「ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけした(13節)」と大歓迎をした様子が記されています。ヤコブは実家に戻ることのできる保証もなく、孤独に旅をしてきました。ですからラバンの歓迎はどれほど嬉しいことだったでしょうか。ラバンはさらにヤコブに対し「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ(14節)」と言いました。かつて神様がエバをアダムの助け手として造られた時に、彼は「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と呼びました。家族や肉親が神様の愛や意図に基づいて建てられる時、そこには祝福があります。

2.人の愛情の限界

一方で、私たち人間の「愛情」は神様の愛に比べて、どうしても限界があります。ヤコブはラバンの娘ラケルと結婚することを願い、7年間忠実にラバンのもとで働きましたが、ラバンは姉娘レアの将来を心配し、ヤコブをだましてレアを先に彼と結婚させます。それはラバンの娘への愛情から出た行動でしたが、神様の愛とはかけ離れた独りよがりなやり方でした。結果、この後で娘たちは互いに争いあうようになっていきます。私たちは創造主である神様に聞いて従うことなしに、本当の意味で愛を実現していくことはできません。

3.神様は万事を益と変える

 ヤコブはラバンに対して「なぜ、わたしをだましたのですか(25節)」と叫びました。この時、ヤコブはきっと自分自身が兄と父をだまして神様の祝福を奪い取ってきたことを、思い出したことでしょう。この経験がヤコブを謙遜にし、神様の祝福に相応しい者へと変えていきます。無理にレアとラケルを嫁がせたラバンの勝手な行動も、イスラエルの十二部族となる多くの子どもたちへとつながっていきます。人の欠けた部分や、罪ですら、神様は信仰に応えて良いものへと変えていってくださるのです。

<思い巡らしえみましょう>

 神様の愛に根ざした家族とは、自分勝手な愛ではないか、主に信頼しましょう。