イエス様、怒る

マルコによる福音書11章15~19節  

 

  商売人たちであふれかえった神殿のひどい状況を見て、イエス様は珍しく彼らを追い出すという行動を伴った怒りを表されました。

 1.「いかり」と「おそれ」

 神殿では巡礼者が税を納めるための両替商や、ささげものにする鳩を売る商人が商売に明け暮れ、境内を近道として利用する人々も多く、悪い意味でごった返していました。本来は神様との礼拝と祈りの場であるはずが、人間の商売と利己心の場になっていました。イエス様は神様を「畏れる」ことない人々に、正しく怒りを表されました(15~17節)。叱ったという表現が合うかもしれません。一方で、神殿の責任を負うべき祭司長や律法学者たちは、イエス様の人々からの人気を「恐れて」、ひそかに殺してやろうと身勝手な怒りを燃やしました(18節)。

神様ではなく、人しか見えていないと、人はおそれるべきものを見誤ります。

2.すべての人の祈りの家

 商売がなされ、近道にされていたのは、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれる、ユダヤ人に限らず誰でも礼拝できる場として開放されていた所でした。ところがそこが、とても礼拝できる環境ではなくなっていたわけです。イエス様は旧約聖書の言葉(イザヤ56:7)を引用して、神様を礼拝したいと願う異邦人たちを妨げていることを強く戒めました(17節)。神様はわたしたち異邦人を招いておられます。

 主を求める人を妨げてはいけません。現在の教会も仲間内で楽しむ場ではなく、何よりもまず礼拝と祈りの群れであり、主を求める人たちに皆に開かれたものです。

3.形よりも心が大事

 さらにイエス様は、祈りの家を「強盗の巣にしてしまった(17節)」と厳しく言いました。「強盗の巣」も、旧約聖書で用いられた表現で、形や言葉は敬虔そうにして、実際の行動は神様に背き、何よりそれを悔い改めることもない信仰者たちに向けられた言葉です。今の時代の私たちも、イエス様を信じた時から自分自身が主の神殿となると聖書は教えています(Ⅰコリ6:19)。クリスチャン「らしさ」など必要ありません。主が喜ばれるのは主を畏れ、悔い改めて従うことです。自分自身の信仰を見直しましょう。

<思い巡らしてみましょう>

 誰をおそれていますか。主が招いています。悔い改めて礼拝しよう