イエス様、呪う

マルコによる福音書11章1~14節   

 

  いよいよイエス様と一行がエルサレムに到着します。

1.都合のよい信仰

 過越祭を迎える都エルサレムにイエス様と弟子たちがやってきました。近くの町で救い主に相応しい準備として、ろばを借り、エルサレムに入ります。人々は英雄を迎えるかのように大歓迎をしました(1〜8節)。ところが、彼らの歓迎の言葉を聞くと、どこかズレた信仰の姿が見てとれます。

「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように(10節)」

ここには、イエス様を迎えたエルサレムの群衆が、ローマ帝国から(おそらく軍事的・政治的に)解放してくれてユダヤ人の国を再興してくれる人として、イエス様に期待を寄せていたことが示されています。私たちも、自分に都合のいいイエス様のイメージや、勝手な救いの内容を作り上げて神様に要求してしまうことがありえます。自分に都合のよい信仰だけを求めていないか、注意が必要です。

2.内側を見られる主

 派手な大歓迎をするエルサレムですが、イエス様は真っ先に神殿の様子を見に行きました。そして、ガッカリしたように街を後にします(11節)。イエス様の関心は、私たちの外面ではありません。心の中心に本当に主がおられるかを見ます。

主は私たちの内側を見られる方です。

3.悔い改めの実

 翌日、イエス様がいちじくの木を呪うという、何とも不思議な出来事があります。じつはいちじくの実は、聖書の中で「悔い改め」を象徴するものとして出てきます。「葉の茂ったいちじくの木(13節)」は、繁栄したエルサレムの街や、人々の歓迎の様子を連想させます。しかし、実際には悔い改めてイエス様の赦しを迎える気持ちは、人々にはありませんでした。悔い改めのないところに、イエス様の命をかけた赦しの十字架は虚しく響きます。どんな敬虔そうな態度も賛美も礼拝も、悔い改めと心からの信仰がなければ意味がありません。私たちの信仰をもう一度よく吟味してイエス様を迎えましょう。

<思い巡らしてみましょう>

 都合のいい神様を作っていませんか。悔い改めて主を迎えましょう