苦しみは栄光の架け橋

エフェソの信徒への手紙3章7~13節

信仰は単なる知識や哲学ではなく、キリストの愛であり、情熱です。今日の箇所には使徒パウロの情熱がよく現れています。その背景には一体何かあるのでしょう。

1.主に召されて

「神は…わたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました(7節)」とパウロは自分に与えられた「使命」について語ります。元々はキリスト教の迫害者だったパウロは、まさに迫害のためにダマスコという町に向かう途上で主イエスに幻の内に出会い、悔い改めて伝道者とされました。特に、異邦人たちに福音(救い)を伝えるための使徒として召されました(使徒9:15~16)。
人は誰しも意味があって神様に造られ、生きています。主を信じて福音に仕える決心をする時、その真の価値と意義を見いだすでしょう。あなたの使命は何ですか。

2.いと小さき者よりも小さき者

パウロは自分自身を「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と表現しました(8節)。これは卑屈な性格だからでも、偽善者ぶってでもなく、彼の本心からの言葉です。すなわち、彼は本当の意味で「謙遜」でした。
上述したように、パウロは迫害者でした。最初の殉教者ステファノの死にも間接的ながら彼も関わっていました。主イエスに出会って悔い改めても、当然のことながら彼は自分を誇ることなどできなかったでしょう。しかし、だからこそパウロにとっては「こんなわたしを」主が命を与え、使ってくださるということがどんなにか嬉しかったでしょう。自分の罪を知っている人は主の愛を知り、真の謙遜を知ります。あなたは知っていますか?

3.苦難は栄光への架け橋

キリストの愛を知ったパウロにとって、「囚人となっている」苦難も落胆の原因になどなりませんでした。むしろ、苦難は信仰者にとっての栄光であるとすら言います(13節)。なぜなら、キリストが私たちのために十字架の苦難を担われたからです。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む(ローマ5章)」苦難の内に人はキリストを見、人は成長し、信仰は育てられます。

<思い巡らしてみましょう>

苦難をどうとらえていますか?