主の日が来る前に

マラキ書3章19~24節

アドベント(待降節)三週目は、救い主イエス様が来られる備えをした「洗礼者ヨハネ」について、その500年近く前に預言されているマラキ書に注目します。

まさに、イエス様を迎えるクリスマスを前にして、この時期をどう過ごすか、大切なことが語られている個所です。

1.裁きの日

 まず前提として語られていることは「見よ、その日が来る(19節)」ということです。「その日」とは主の裁きの日のことです。聖書は主が必ず全ての人を裁く日が来ると予告しています。人はみな裁かれる、だからこそ救い主が来られたのです。

 「裁き」という言葉には、罪を罰するというイメージがあるためか、多くの人が誤解している面があります。裁きとは本来、正しいことを正しいとし、悪いことを悪いとする(そして罰する)ことを意味しています。ですから、今日の個所でも、罪人は「わらのように」燃やされる様子が語られる一方で(19節)、神様を畏れ敬う人は正しい人として評価されることが語られています(20節)。

 悪人が世にのさばり、裁かれなければ、誰でも嫌な思いがするのではないでしょうか。そういう意味では、裁きの日とは希望でもあるのです。

 ただし、問題は全ての人には罪があるということです…。(参照ローマ3:9)

 

2.主の日が来る前に

 神様の前に完全な人(罪のない人)などいません。しかし、聖書の一番のメッセージは私たちが裁かれるということではなく、救われるということです。

 マラキはその日が来る前に、洗礼者ヨハネを遣わし、救い主を迎える備えをさせることを預言しています(23~24節)。実際、ヨハネは人々が悔い改めて神様に立ち返り、イエス様を迎えるようにと教え続けました。今、私たちも聞きましょう。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3:17)」クリスマスは単なるお祭り騒ぎではありません。主の裁きに思いをはせ、しかし赦し主を下さる主の愛を受け取る時としましょう。

 

<思い巡らしてみましょう>

今、罪を示されている人は幸いです。主イエスはあなたを赦すために来られました。